北海道の歴史は浅い。人が立ち入る事さえ拒む未開の大地に、先人たちが挑んだのはわずか1世紀とほんの少し前。その後、急速に近代化が進んだ北海道。新天地に夢と希望を見出し、その困難を極めたであろう開拓に果敢に挑んだ彼らの事をけっして忘れてはならないと思う。母の祖父である磯部吉太郎が現在地にやってきたのが1908年(明治41年)と早来町史には記されている。 |
(初代)磯部吉太郎
1885〜1951 |
(二代)磯部義光
1907〜1996 |
(分家初代)磯部恒雄
1910〜1997 |
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1907年(明治40年) |
札幌農学校、東北帝国大学農科大学となる。磯部吉太郎長男「義光」誕生 |
1908年(明治41年)
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角田村(北海道空知)字アノロより磯部吉太郎が父長松と現在地に入地 |
1909年(明治42年) |
磯部長松が畑目的をもって原野15町6反4畝29歩の売り払いを受け開拓に着手(土地代金46円94銭) |
1910年(明治43年) |
吉太郎、二男「恒雄」誕生 |
1913年(大正2年) |
大凶作 |
1918年(大正7年) |
札幌農科大学、東北農家大学から分離、北海道帝国大学に |
1920年(大正9年) |
道産米100万石祝賀会(札幌で開かれる)119万107石 |
1929年(昭和4年) |
吉太郎第12期村議会議員当選(定数18・任期4年) |
1931年(昭和6年) |
義光、阿部至二女「きち」(後に慶子と改名)と結婚 |
1935年(昭和10年) |
恒雄阿部至三女「みつ」と結婚
子どもには恵まれなかったが兄、義光の次女「幸子」を養女に迎え、分家。 |
1945年(昭和20年) |
終戦 |
1947年(昭和22年) |
農地解放(改革)地主・小作制度の崩壊(自作農戸数284万戸から541万戸に) 同年農業協同組合法成立 |
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義光は戦後初の選挙で村長に初当選、14歳の長男と隣地に分家していた弟恒雄に農場を託す。 |
この頃の農業は農耕馬が活躍していた。
今では懐かしい「馬そり」の写真。耕運機や自動車はまだ無い。
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1956年(昭和31年) |
分家2代目「幸子」村井保四男「春雄」と結婚 |
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若き日の母と叔母さん |
父「春雄」 |
1957年(昭和32年) |
分家3代目「正宏」誕生 |
乳牛や羊も飼っていたこの時代はほとんど自給自足。農薬が使われ始めたのもこの頃 |
水田にて祖父恒雄と父春雄 |
子供に恵まれなかった祖父母の養女の夫として迎えられた父は、なにより稲作農家の働き手として歓迎された。馬車馬の様に働く父の姿しか思い出せない。祖父恒雄は初めての孫誕生に大変喜び、私はたいそうかわいがられたのだそうだ。
この二人が実質上、我が家の基礎を築いた。 |
正宏1歳両親と叔母と |
1967年(昭和42年)
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祖父母に両親と働き手の4人そろっていた我が家はこの頃規模拡大や米の増産に取り組む |
この頃我が家には赤電話があった。(玄関先には公衆電話の看板が見える)自家用車もこの頃(赤いパブリカも写っている)
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土地改良のための客土作業中の父 |
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1972年(昭和47年) トラクター導入 |
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(父39歳) |
昭和40年代後半に田植え機が登場するまではこのスタイル |
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